マスコミなんてその最先端を走っていて、テレビでは「長野でも何か起きるのでしょうか…」などと表向きは心配そうな顔で言いながら、国境なき記者団のメンバーが日本にやってくるとか、日本にいる中国人留学生が聖火を歓迎する(守る?)ために長野に集結するとか、そんな報道ぶりに、何かが起きるに違いないというワクワク感と徹底的な瞬間をおさえなくちゃっていう緊張感が見え隠れする。
私はもちろんチベット開放を支持する立場ながら、暴力的に聖火を奪い取ったり、消化剤をかけたりする行為は否定する。国境なき記者団が抗議活動をするっていうのも『ちょっと違うんじゃないの?』と言いたい。記者なんだったら自分の書くものでどうにかしようって思わないのだろうか。それとも既にそれを諦めた人たちの集団なんだろうか。
正直言って私にとって「聖火」そのものがどうでもいい存在だ。これまでのオリンピックで聖火に注目したことなんてない。「聖火」なんていうから何か神聖なもののような気がするけれど、英語だとTorch Relayと表記は極めてシンプルだ。
ギリシャからずっと人間の手でリレーしてくるのだったら神聖な気持ちにもなれるだろうが、飛行機に乗って世界の主要都市でせいぜい各10〜20キロ程度回る程度のパフォーマンスに価値なんて感じない。しかも、今回の聖火は途中でバスに乗ったり、倉庫に入ったり、消したり再点火したり、どうしようもなく情けない状況なのを見るにつけ、(楽しみにしている人には申し訳ないが)『聖火リレーなんてやめちゃえばいいのに』と思っている。