この記事、ネット上では全文掲載されていないのか、1段落だけのごく短い記事。
ネット上の一部掲示板には加害女児を「かわいい」と称賛し、「ファンクラブ」結成を呼びかけるような書き込みも出てきた。ネット上では加害女児とされる写真が出回っており、女児が着ている服に書かれた文字からとったニックネームまでつけられている。その写真を加害女児と同一人物と信じている複数の人が「○○さん(ニックネーム)に恋しました」「かわいい子は何してもいい」などと被害者感情を逆なでするような意見を書き込んでいる。こんな報道をすることこそ被害者感情を逆なでするんじゃないのかなぁ。見出しをみると既にファンクラブができたかのようだ。掲示板の無責任な書き込みをこんなふうに取り上げる意味がどこにあるんだろう。記者とデスクの良識を問いたい。おそろしく気分が悪くなった。
ネットでみかけた読売にも不可解な記事。
東北、北陸地方で今年初め、小学生同士がネット上の書き込みを巡ってトラブルになり、いじめにまで発展したケースが2件あったことが3日、わかった。きっちり統計を取ったとも思えないけど、これってニュースなのかな。「2件もあった」といいたいのか「2件しかない」といいたいのか、どうも何を伝えたいのか分からない記事だ。
私は当初この事件について、これまでの子供による殺人事件よりも分かりやすいのではないかと思っていた。女の子同士って仲良くしていたかと思うと急に嫌悪感をみなぎらせて憎み合うことがあるのは、私自身が子供時代に同級生の間で見てきた。同級生のケンカの延長線上に事件があると思えば、なんとなく理解できる気がした。一方、まったく理解できないのは、幼い子を連れ出して服を脱がせた挙句に突き落としたり、自分よりも年下の子の首を切って目立つ所に置いたうえに挑戦状まで送りつけるような弱者を狙った犯罪だと思っていた。
ところが、報道をみていると今回の犯人の女児は被害者に「会って謝りたい」と言ったかと思うと、「現場にとどまって死ぬのを確認した」と言っている。このあたりの感覚が私には全く理解できなくて、段々と混乱してきた。
マスコミは犯人の女児が「バトル・ロワイアル」が好きだとか、自分のホームページに「影、漆黒の才が闇を満たしていようと構わない」「苦汁、絶望、苦しみが私を支配する」などという詩を載せていたと競うように伝えている。でも、バトル・ロワイアルを見た子供なんて数え切れないぐらいいるはず。それに私だって子供のころは、何かの本で読んだ格好いいと思える表現をつなげて文章にしていた。そういう人間は「殺人者予備軍」なんだろうか?
情報の錯綜で混乱している頭で考えた。少年法をいくら改正して刑事罰の適用年齢を引き下げても、もはやあまり効果はないように思える。そういえばマスコミもその点について触れていないな。それに「命の大切さを教える」なんていうきれいごとじゃ、もうダメなんじゃないの? むしろ「死の恐怖」を教えたらどうだろう。
子供の私が「死」の意味を悟ったときはそりゃ恐かった。子供ゴコロに「私がいなくても、地球は回りつづけるんだ。みんなの生活は何ひとつ変わらないんだ。そんなのイヤ!」って思うと恐くて眠れなくなり、夜ふとんの中でジタバタしていた。しかし待てよ、私の場合1人で悟ったけど、そんなことを大人から教えられたらそれこそ恐怖心に支配されてよくないか…。ますます混乱してきた。
被害者、御手洗怜美さんの父親の書いた声明文というか手紙(朝日新聞)を読んだら泣けてきた。