でも叔母は完全にといってもいいほど日本語を忘れていた。これまで話すときは日本語と英語をまぜこぜで話してきたから、日本語を使えば少しは昔の記憶を取り戻すのではないかと思ったのだが、私が日本語に切り替えた途端、叔母の頭は混乱をきたした。「何この人、いきなり意味不明のこと言い始めて…」と言われた。
私はアルツハイマーについてはほとんど何も知らず、最近のことから忘れていって昔のことは覚えているものだと思い込んでいた。叔母と話す前に長話をした従姉妹によると5分前の話も覚えていないということだったので、何十年も昔のことなら大丈夫かもしれないなんて楽観的に考えていた。それだけに、叔母が日本語に拒否反応を示したことがショックだった。
日本嫌いの叔母だった。学生時代に叔母の家にホームステイした時、かつての日本ではアメリカ人の配偶者がいるというだけで奇異な目で見られたり、当時幼かった従姉妹がいじめられたことへの恨みつらみを繰り返し話してくれた。叔母が髪を派手なブロンドに染めていたのも日本人であることを捨てたい一心だったのかもしれない。「日本には金輪際帰りたくない。アメリカはいいわよ。自由で」というのが叔母の口癖だった。
2000年に従姉妹と日本にやってきたときも「里帰り」というよりも「アメリカからの観光ツアーご一行様の一員」で、数十年ぶりの日本に何の感慨もない様子だったっけ。そんな叔母は日本の記憶を消し去ることでさらに自由になれて幸せなのかもしれない(とポジティブに解釈することにした)。
従姉妹の近況も叔母と同じくらい厳しいものだ。8年前の大統領選の時にはゴア陣営のスタッフだった彼女は、ゴアが落選したあともワシントンでスピーチライターなどして政治の世界にかかわっていた。
その環境は母親の病状悪化で一変。東海岸での仕事と生活を捨て、カリフォルニアに戻ってきた。ホームセンターでパートタイムの販売員をしながら介護に明け暮れる毎日だと聞いて、何て言えばいいのか言葉が出てこなかった。日本語で話していても気の利いたことは言えなかったと思うから、英語ならなおさらだ。
「そうなんだ…」としか返事ができず、つい米大統領選のことに話題を変えてしまった。彼女はもちろんオバマ当選を大歓迎していたし、私も明るい話題で会話を終えることができてホッとした。電話を切ってから少し泣けた。
成長して年老いて死にいたるのは命を授かったものの宿命と分かってはいる。子どもだってある時急に成長するから、老人だってある時急に衰えるのも不思議はない。それでもなお、叔母の変貌ぶりとそれに振り回される従姉妹の状況を知り、どうしようもなくやるせない気持ちになった晩秋の週末だ。私にとっても介護の問題はすぐそこまで来ている。