2010年10月15日

「日本軍のおかげ」

 話は台湾に逆戻りする。陳さんに再会するなり叱られちゃった。「あんたが台湾に来るってハガキをくれたから、一緒に温泉(旅館へ泊まり)に行こうと思ってカバンにパンツを詰めていたのに、先に行ってきちゃったなんて…」。ゴメンなさい。と謝りつつも、「カバンにパンツ」の表現があまりにも具体的すぎて思わず笑ってしまった。

 この陳さんは本当に不思議な人で、大正11年生まれ(本人は89歳と言っていたがそれは数え年で満年齢は88歳のはず)というのも信じられないし、台湾人というよりも日本人に思えてならない。

 陳さんの家から30キロくらい離れたところにある民宿から電話したのが午後7時半頃。「これから会いに行く」と言われ、「もう暗いから明日にしましょう」と押しとどめたら、「それじゃあ朝の6時に行きます」と言われた。「もう少し遅くてもいいんじゃないですか?」と9時頃を念頭に提案したら「それじゃ7時に行きます」と言われ、本当に7時きっかりに現れた。

 陳さんの車は4WD。思わず「しめた!」と言いそうになった私は、90歳近い老人をアッシー(死語?)にしようという悪魔のような女です。当然ながら辺鄙なところにある温泉に連れて行ってくれることになる。地図の細かい文字をまったく苦労しないで読んでいるのにビックリした。針に糸を通すのも問題ないそうだ。

 車中の会話は「日本人がノーベル賞を取った」と自分のことのように喜び(私はそのニュースさえ知らなかった)、そうかと思えば「小沢は本当にどうしようもない政治家だね。ありゃ日本の恥だ」と切り捨て、尖閣諸島問題については「中国のやることはこすっからいから…」と全面的に日本びいきで、なんだか海外にいる気がしない。

 土砂崩れで道が覆われて斜面になっているような悪路を運転してたどり着いた温泉は昨年夏の台風被害で埋もれてなくなっていた。そこは原住民パイワン族の住む部落。1人の老人が陳さんに歩み寄ってきたかと思うと、2人は完璧な日本語で話し始めた。最初の挨拶は「貴様、コノヤロー、元気だったか?」と聞き取れた。まさに「同期の桜」の世界。何十年も前の白黒映画を見ているかのようだった。

 要するに台湾人の陳さんとパイワン族の老人の共通語はいまだに日本語なのだ。ひとしきり完璧な日本語で会話をしてから陳さんは私を「日本から旅行で来た日本人」と紹介してくれた。パイワン族の老人に「本物の日本人?」と聞かれて苦笑したが、考えて見れば陳さんもこの老人もかつては「日本人」として戦争に行ったのだから、本物もニセモノもない。

 その後も曲がりくねった悪路を運転して別の温泉に連れていってくれた。それから「刺身を食べさせてあげたいから」とかなり遠くまでドライブし、駅で私を降ろしてから自宅まで帰ったことを考えれば少なくとも200キロは運転しているはず。それも3〜4割はクネクネの悪路だ。「日本軍の訓練を受けているからこのくらいヘでもない」と陳さんはいうのだけれど、それって何十年前の話よ?

 おまけに2・28事件とその後の白色テロ(国民党政権による親日派の弾圧)の時代にはさぞかし苦労したのだろうと話を聞いたら、「山に逃げたよ。捕まったら絶対に殺されていた」とこともなげに言い、山で生き延びられたのも日本軍の訓練を受けていたおかげと断言する。見方を変えれば「日本が台湾を植民地にしなければ戦争に行くこともなく、弾圧の対象になる恐れもなく平穏に暮らせた」と言うこともできそうなもんだけど、この人の頭には日本に対する否定的な考えが一切ない。

 日本軍のおかげかどうかはともかく、3階建ての自宅も階段をスイスイと上り下りし、好奇心も旺盛。「テレビでたまに聞く『みちのく』っていう言葉はどういう意味?」とか「あんたの手紙に分からない部分があった」と、納得出来るまで質問攻め。記憶力も抜群で、戦時中に南方戦線で覚えたインドネシア語の単語を今でもたくさん覚えている。エッチな話も結構お好きで、若さを保つ秘訣がなんとなく分かったような気がする。

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写真は陳さんが書いてくれた「サヨンの鐘」の歌詞。サヨンの鐘の話は戦時中に映画にもなっている。詳しくはウィキを参照
   
     
タグ:台湾
posted by らくだ at 00:36 | Comment(5) | TrackBack(0) | 旅日記ほか旅関連 | 更新情報をチェックする
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