絶対に忘れられない出会いがあった。2人とも苗字は陳さんといい、80歳を超えているのも一緒だ。
最初にあった陳さんは女性だ。日本語ペラペラの経営者がいるはずの温泉民宿に行ったら、日本語も英語も話さない息子が跡を継いでいた。困った彼が呼んできたのがこの陳さん。最初は経営者のおばあちゃんに違いないと思い込んでいたのだが、単なる常連の日帰り入浴客だった。
陳さんは昭和3年生まれ。日本の教育を受けて今でも教育勅語を暗記している。日本名は春子さんで、名刺には中国語の名前のほかカタカナでハルと書いてある。日本のものは何を見ても誰にあっても(それが若い人でも)懐かしい気持ちになるのだそう。日本の絵葉書を何枚か持ってきていたので、富士山と桜、金閣寺の2枚を上げたら、ものすごく喜んでくれた。
お返しにくれたのが、植民地時代の1円硬貨3枚。絵葉書2枚で古銭3枚というのは随分もらいすぎなので「高価なものだろうから、私は受け取れません」と言ったのだが、「日本人に持っていてもらうのが私の幸せ」だという。ありがたくいただく。
水着に着替えて一緒に温泉プールに入る。「日本語の歌を一緒に歌いましょう」と言うので同意したのだが、春子ばあちゃんときたら「敵の砲撃かいくぐりぃ〜♪」とか「お国のためにぃ〜♪」と私の聞いたこともない戦時中の歌ばかり大きな声で歌う。おまけに「あれ、知りませんか? だめですねぇ」と来たもんだ。
ここでもう一人の陳さん(男性)が登場。ほかの客から日本人が来ていると聞いて寄ってきた。私と日本語で話しているのを見た春子ばあちゃん、陳さんと軍歌の合唱を始める。あとで「あの人の方が私よりも日本の軍歌をたくさん覚えていた…」と悔しがっていた。
春子ばあちゃんは帰り際、「日本人は台湾を宝の島と呼んでくれた」と言って私に箱をくれた。中から出てきたのは台湾の形をした木製の箱。たぶんチーク材でできていると思う。おまけに象嵌細工が施されている。高価なものに違いない。中には削っていない印鑑2本と別の古銭が入っていた。当然ながら遠慮したのだが、「あなた持っていなさい」と言われてありがたくいただく(しかし思いがけず荷物が増えた…)。
春子ばあちゃんたら、日帰り入浴に行くのにいつも骨董品をこんなに持ち歩いているのだろうかと不思議に思うかもしれないが、名刺には「古物商」と書いてあるので納得できないことはない。しかし、日本人に出会うたびに気前よく配っていたら商売にならないんじゃ…。心配だ。
しかし、春子ばあちゃんは「あぁ、日本人と日本語で話せて今日はすごくいい1日だった」と本当に満足そうに帰っていった。同行の孫やひ孫?たちも言葉は通じないものの「うちのばあちゃんを楽しませてくれてありがとう」と言ってくれていたみたい。チャンバラが好きだという春子ばあちゃんに日本からDVDを何枚か送るつもりだ。
軍歌競争で春子ばあちゃんに勝った陳さんは、日本名は聞かなかった。というかあまりにも日本への思いが強すぎて聞けなかった。もうすぐ90歳になるそうだが、かくしゃくとしている。400キロのドライブも「へのかっぱ」だそうだ。日本軍での地位は台湾人としてはかなり上で随分活躍したそうだ。軍歌競争で春子ばあちゃんに勝つのも当然といえば当然なのだ。
陳さんの口から「あの戦争で日本が勝っていれば、私はこんな田舎暮らしをしていなかったはず…」という言葉が出て、ひっくり返りそうになった。だって、冗談にしたってそんな非現実的な仮定の話、これまで聞いたこともなかったから。でも、陳さんはごく真面目だった。
かといって日本に恨みがあるわけじゃない。まったく逆だ。敗戦により台湾と日本は切り離されてしまい、ともに被害者になったという認識なのだ。「台湾が中国に併合されるなんてとんでもない。日本と一緒になれないのだったら独立するしかない」と言われ、日本人でいることを諦めなくてはならなかった陳さんの無念さを思うと返事のしようもなかった。
春子ばあちゃんは「人を騙さず、盗まず、正しいことをしろ、感謝する気持ちを持てと教えてくれたのが日本の教育です。でも、戦後受けた中国(国民党)の教育には道徳教育はまったくありませんでした」とキッパリ断言していた。その昔、台湾を統治し子供たちに教育を施した日本人たちは、こんな風に自分たちの文化や考えが引き継がれることを予想していたのだろうか。植民地支配を支持するつもりはまったくないけれど、今日だけは昔の為政者に感謝したい気分だ。