2005年06月14日

百聞は一見にしかず

 青山学院高等部の英語の入試問題で「ひめゆり学徒の体験談は退屈だった」(カッコ内は原文にあらず)という部分があったこことが今になって問題視され、高校側がきのう沖縄まで謝罪に赴いたそうだ(琉球新報)。

 入試問題の話を最初に聞いたのは週末だったかな。そんな例文を使うなんて無神経だなぁと思ったものの、それ以上は関心がなかった。原文(このPDFファイルの4ページ目)の存在を教えてもらって読んでみたら、報道とはちょっと違った印象を持った。というのも、報道は「退屈」という部分を切り取って強調していてその前段落の話が欠如しているため、戦争体験を全体的に「退屈」といっているのだとばかり思っていたのだ。ちょっと長いけど、「退屈」が出てくる前の部分を紹介する(ただし超訳よりも飛ばしているらくだ訳なので誤訳があるかも)。
それが起きたのは修学旅行で沖縄に行ったときだった。滞在中に私たちのクラスは戦争時のまま残されている防空壕を訪ねる機会があった。各自が灯りを持ち、年老いたガイドについて洞窟に入った。内部は暗くて湿っていた。戦時中からほとんど変わっていない。都会から来た子供にとっては完璧な遊び場だった。誰かが滑って転ぶと、笑いはやした。声がこだまするのも面白かった。誰かが「ここでキャンプしたら楽しいんじゃない?」と言った。そうだ、本当に面白いだろうな。その時、ガイドが言った。「OK、灯りを消しましょう」。最後の灯りが消えるとあたりは暗くなった。真っ暗闇だった。誰も何も言わなかった。何も「言えなかった」のだ。「これが戦争です。この中で私たちが祈っていたことは生き延びることだけでした。もう二度と経験したくありません」。戻るときには誰も何もしゃべらず、もちろん笑う人もいなかった。外に光が見えた時にどんな風に感じ、洞窟を出たときにどれだけ神様に感謝したかをいまだに覚えている。女子生徒が泣いていても驚かなかっただろう。それほど説明はなかったが、その経験が意味することは理解できた。その時になって初めて、年老いたガイドがそれほど話さず、私たちの質問にも言葉少なに答えるだけだった理由がようやく分かった。
この体験のあと、ひめゆり記念公園に移動してひめゆり学徒の話を聞き、「正直にいうと私には退屈で飽きてしまった。彼女が話せば話すほど洞窟での強い印象を失った」とつながっていく。

 要するに「百聞は一見にしかず」というように戦争体験を感じた部分なのだ。私にとってはまさにこの問題文も「百聞は一見にしかず」だ。

 具体的にひめゆり学徒を持ち出してきて「退屈」としたのは配慮が欠けると思うし、私がひめゆり学徒だったら「無神経すぎる!」って憤慨すると思う。でも、受験者の父兄として問題を読んだら、たぶんさらっと読んで特に違和感を持たないだろう。ただ鈍感なだけ? 受験生の立場だったら、この長くて話題があちこち飛ぶ文章の解読に必死でそんなところまで頭が回らないはずだ。出題側の教師だったら、英文の不自然さについての意見はあるものの「この退屈っていう部分はヤバイ」って指摘できる自信はない。
posted by らくだ at 23:12 | 東京 🌁 | Comment(5) | TrackBack(1) | 話題 | 更新情報をチェックする
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